「中千住駅」と「西千住駅」(地図・昭和16年)
昔、私が勤務していた出版社の『東京区分地図』の足立区を見ていたら、東武線「中千住駅」と、京成線「西千住駅」が記載されていたので調べてみた。
東武鉄道「中千住駅」は大正13年に業平橋、西新井駅間に電車が運転されるようになり、「千住駅」として営業を始めた。駅は大踏切の東側南寄りにあり、浅草から最初の折り返し駅として、当時乗降客が3番目に多かった。昭和5年から「中千住駅」と改称されたが同28年に廃止された。
京成電鉄「西千住駅」は、昭和10年に上野付近トンネル工事の土砂で埋立てた緑町分譲地を売り出した際、現緑町二丁目交番付近で営業を開始したが、昭和22年に廃止された。
参考図書=東武会社要覧、京成グループ要覧(いずれも平成17年版)。
この連載は3年間に36回掲載しました。年齢も80代半ばを過ぎたので、一区切り付けたいと思いましたが皆様のご要望もあり、もう少し続けます。引き続きご覧頂きたいと思います。お便りお待ちしております。
(文・資料提供=太田畯三さん・日ノ出町26在住)
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「大正記念道碑」
昭和40年6月(右)、平成19年10月(左)。
この碑は千住宮元町29、墨堤通りの角、自動車教習所前にある。大正5年、西掃部堀が埋立てられて大正記念道が完成した際ここに建てられた。この道路は、千住大川町の氷川神社前から南に今も大正通りとして宮元町まで延びている。
碑文の作者は明治の文豪・森鴎外で、その経緯を次のように記している。「千住は父がかつて住んだ所で馴染みがあり辞退するわけにもいかず、謂れを書いて与えた」と文の末尾にある。
碑文は約400字の漢文でこの道の由来を説いている。裏面には当時の千住の名士の名が約200人刻まれている。
この貴重な文化財について、現場にある説明板の記述は平易で行き届いてはいるが、参観者には全文の読み下し文と裏面の名前を別に表示して頂ければ喜ばれるのではないかと思う。
(文・資料提供=太田畯三さん・日ノ出町26在住)
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「小台の渡し」。写真・昭和6年、地図・明治42年
明治の東京名所図会を見ると「小台の渡し、渡銭一銭を徴す。渡れば即ち尾久なり、川幅 八十間、両岸に茶店あり」と記されている。地図中央の三叉路は今もそのまま残っている。
写真は隅田川を小台村から尾久村へと向かう途中で遠くに千住の四本煙突が見えている。乗客に日本髪の女性も見えるが、雨の日などはさぞ難儀した事と思う。昭和8年、少し下流に小台橋が架けられ、この渡しは廃止された。出典=写真・日本地理風俗大系、地図・参謀本部陸地測量部
■太田さんの「ノスタルジー東日本の五十年」、「同・西日本の五十年」が小冊子になりました。昔の写真と解説付。価格はいずれも1300円。ご希望の方は足立朝日まで。
(文、資料提供=太田畯三さん・日ノ出町26在住)
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西新井大師 上=昭和五年・下=昭和七年
西新井大師総持寺は天長三年(826)弘法大師の創建。地名は大師が汲んだ井戸の名に由来する。写真の本殿は江戸時代中期の建築だが昭和41年に惜しくも炎上、焼失した。現本殿は同47年の再建である。
下の写真の右下に、東武・大師前駅のホームが見えるが、環七通り建設の際、100米ほど東方に移された。現在この付近は環七の道路となっている。出典=上は日本地理大系、下は新東京大観。
■太田さんの「ノスタルジー東京の五十年」が冊子となり懐かしい写真と解説付で発売中。「東部編1500円」「都心西部編1800円」。ご希望の方は足立朝日まで。なお、「ノスタルジー東日本」「西日本」が10月に発行されます。予定価格・各1300円。ご期待ください。
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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昔の荒川風景。昭和7年。
昭和7年、市郡合併により東京市に隣接している5郡82町村が編入された。南足立郡の千住町、梅島町、西新井町と舎人、伊興、綾瀬、花畑、淵江、東淵江、江北の村々が足立区となった。その際、記念に朝日新聞社から「新東京大観」が発行された。上巻を所持しているので紹介します。
写真は千住新橋より荒川放水路下流を見たもので、遠くに常磐線鉄橋が見え、右側は現在の千住五丁目付近にあたる。水中に人がいるので水泳をしているのであろうか。75年前、夏の風景。
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(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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「駅前の京成バス」 昭和39年3月。
昔のアルバムを見ていたらこの一枚が目に入った。ボンネット型の京成バスの行き先が、新小岩駅となっている。
どのような経路で走っていたのであろうか。早速、調査してみると足立区史に次のような記載があった。千住新橋を渡り、五反野南町を経て小菅の登記所前、伊藤谷本町を経て、綾瀬駅前に寄り、南下したらしい。とても複雑な道を通っているようだ。ご存知の方はご教示ください。
バス右側の建物はすべて取り払われて、現在タクシーやバスの待機所となっている。向い側の平井商店以外はすべてほかの店と変わり、日興證券ビルは建替工事が行われている。(文=太田畯三さん・日ノ出町26在住)
■太田さんの「ノスタルジー東京の五十年・東部編」が冊子になりました。懐かしい写真と解説つき。ご希望の方は足立朝日編集室まで。1冊1500円
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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旧日光街道、千住小橋付近 大正年間。
4月半ばにマルイで開かれた千住空襲戦跡展を参観した。焼跡の写真を撮影された故若田正治さんとは約30年前、何回もお目に掛かり豊富な昔話をいろいろと拝聴したことがあります。
展示会におられた方にその話を申し上げた処、ゆっくり話し合いたいとの事で後日訪問した。
岩田さんと同じ仲町の旧家のご主人宅で古い写真を見せていただいた。今回はその中の1枚を紹介いたします。場所は現在の仲町19番地付近で、火の見櫓から撮影されたもの。中央の大師道の横を流れるのは江川堀で、昭和6年頃暗渠(あんきょ)化されて下水道となった。馬車が渡っているのが千住小橋で、真中の家は稲垣葬儀社、手前の家は神田屋文具店でいずれも近くに移転した。右の洋館は郡役所で、その後区役所となり、昨年4月、足立産業芸術プラザがそこに開館した。この1枚は、戦前の仲町付近の貴重な記録となっている。
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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昭和36年11月、北千住駅。
明治29年に日本鉄道、土浦線として田端―土浦間が開通した際、開業した。右側の2代目は大正13年に改築され、昭和37年まで39年間使用された。左の3代目は25年間使用され、同61年、現駅舎と交代した。
東武鉄道は明治32年に久喜まで開通した際、開業した。地下鉄日比谷線は、中目黒まで昭和39年全線開通。千代田線は同53年、代々木上原まで全線開通。つくばエクスプレスは平成17年、秋葉原―つくば間が開通した。駅前の広場は平成16年、再開発事業により上部に歩行者通路が設けられて、通行が大変便利になった。
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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ほぼ同一地点の過去と現在
千住大踏切と日比谷線。昭和36年11月。
この踏切は北千住の南方にあって、閉鎖時間が長いので通行人を困らせている。左に見えるSLは9600型で、貨車の入替え用に使用されていた。右、工事中の高架線は日比谷線で、翌37年5月に人形町まで開通し、東武線の乗り入れが始まった。同39年8月に中目黒まで全線開通し、東横線の乗り入れも開始された。
2枚目の写真は最近の撮影で、ほぼ同一地点から見た風景。SLの場所にはつくばエクスプレスの橋脚が立っている。JRを跨ぐ歩道橋には、視界を遮る遮蔽板が取り付けられてあるので道路からは人の姿は見えない。撮影時、上の歩行路には1人の熟睡者と1組のアベックがいた。警察のすぐ近くにこんな都会の盲点があるのに驚いた。
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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千住の4本煙突。昭和36年11月。
東京電力火力発電所、大煙突の建設は大正15年(1926)で、38年後の昭和38年(1963)に解体撤去された。高さ83m、最大直径4・5m(底部面積約8畳の広さ)、4本は菱形に配置され、見る場所により1、2、3、4本に見えたので「お化け煙突」と呼ばれた。1本の重さ鋼板60t、煉瓦450t、合計510tであった。
昭和24年(1949)、五所平之助監督の「煙突の見える場所」に登場した。映画は上原謙、田中絹代、高峰秀子など当時の大スターが競演してヒットしたので、全国的に有名な存在となった。 この発電所は、現在の千住桜木一丁目13付近にあったが、この日は子ども2人を連れて尾竹橋北側から東に入り、その巨大な姿を撮影した。
(撮影・文=太田畯三さん・千住旭町在住)
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