花畑交番前から綾瀬川沿いの道へ出て左へ。そこに一見すると見過ごしてしまうような「南花畑下沼町会会館」という看板がある。それがある建物と建物の間の細い道を歩いた先に建つのが「橋戸稲荷神社」だ。
なぜ橋戸と呼ばれていたのかは定かではないが、かつてこの地域の綾瀬川の岸に橋戸と呼ばれる水門があり、田植えの時期に綾瀬川からの取水の権限を一手に持ち、一帯を仕切っていた豪農がいたという話と、語源から考えると橋戸の「戸」は入り口を表すため、橋の入り口にあったからという説がある。この橋については、昔あった下沼堀用水路に架かっていた橋ではないかとも言われている。
戦時中には、出征した子どもや夫の武運長久を祈る女性たちの、祈りの神社であったという。
その他、境内には明治25年(1892)奉納の盥漱石や、寛政7年(17
95)奉納の青面金剛像の下に鬼と三猿が刻まれた庚申塔がある。
目印の看板がある立派な町会会館の存在からも、地域の人々と神社の結びつきの深さを感じることが出来る。
【交通】「六町駅」からバス「花畑桑袋団地」か「花畑団地循環」で「花畑交番前」下車、徒歩約3分
写真上/建物に囲まれた場所にひっそりと建つ神社
下/綾瀬川沿いの通りにある目印の看板
なぜ橋戸と呼ばれていたのかは定かではないが、かつてこの地域の綾瀬川の岸に橋戸と呼ばれる水門があり、田植えの時期に綾瀬川からの取水の権限を一手に持ち、一帯を仕切っていた豪農がいたという話と、語源から考えると橋戸の「戸」は入り口を表すため、橋の入り口にあったからという説がある。この橋については、昔あった下沼堀用水路に架かっていた橋ではないかとも言われている。
戦時中には、出征した子どもや夫の武運長久を祈る女性たちの、祈りの神社であったという。
その他、境内には明治25年(1892)奉納の盥漱石や、寛政7年(17
95)奉納の青面金剛像の下に鬼と三猿が刻まれた庚申塔がある。
目印の看板がある立派な町会会館の存在からも、地域の人々と神社の結びつきの深さを感じることが出来る。
【交通】「六町駅」からバス「花畑桑袋団地」か「花畑団地循環」で「花畑交番前」下車、徒歩約3分
写真上/建物に囲まれた場所にひっそりと建つ神社
下/綾瀬川沿いの通りにある目印の看板