荒川寄りの下妻街道を西側に少し入った住宅街にある「高砂神社」。少し広めの境内を囲む玉垣に刻まれた多くの人たちの名前から、信仰の篤さを感じることができる。
祭神は倉稲魂命。古くは石川勘七家の稲荷社であったことから「勘七稲荷」と呼ばれ、五穀豊穣や悪病除けとして村人から崇敬されてきた。
関東地方は明治40年(1907)、明治43年(1910)と立て続けに豪雨に襲われ、荒川堤防が決壊し一部の民家も水没。これを受けて翌年には内務省が荒川放水路開削を決定。この神社もその河川敷にあたり、やむなく大正2年(1913)に千住2丁目に旧社殿を移転させた。しかし、その後地域の発展と共に氏子も増え「神社を移築しよう」と昭和25年(1950)に現在の場所に社殿を建立。昭和31年(1956)には法人組織となり、宗教法人高砂神社として運営されるようになった。
神社入口にある神社名の書かれた石碑には昭和34年(1959)~同42年(1967)まで都知事を務めた東龍太郎書と刻まれている。その他、社殿前の燈籠は、天皇陛下御在位60年を記念して昭和61年に奉納されたものだ。
地域の人たちの想いによってこの場に戻ってきた神社。近くに行った際には、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
【交通】「北千住駅」からバス「花畑車庫」もしくは「六町駅」行きで「高砂町」下車、徒歩約4分
写真上/細い路地裏の住宅街に建つ神社
下/社殿の横にある神社の歴史を記した石碑
祭神は倉稲魂命。古くは石川勘七家の稲荷社であったことから「勘七稲荷」と呼ばれ、五穀豊穣や悪病除けとして村人から崇敬されてきた。
関東地方は明治40年(1907)、明治43年(1910)と立て続けに豪雨に襲われ、荒川堤防が決壊し一部の民家も水没。これを受けて翌年には内務省が荒川放水路開削を決定。この神社もその河川敷にあたり、やむなく大正2年(1913)に千住2丁目に旧社殿を移転させた。しかし、その後地域の発展と共に氏子も増え「神社を移築しよう」と昭和25年(1950)に現在の場所に社殿を建立。昭和31年(1956)には法人組織となり、宗教法人高砂神社として運営されるようになった。
神社入口にある神社名の書かれた石碑には昭和34年(1959)~同42年(1967)まで都知事を務めた東龍太郎書と刻まれている。その他、社殿前の燈籠は、天皇陛下御在位60年を記念して昭和61年に奉納されたものだ。
地域の人たちの想いによってこの場に戻ってきた神社。近くに行った際には、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
【交通】「北千住駅」からバス「花畑車庫」もしくは「六町駅」行きで「高砂町」下車、徒歩約4分
写真上/細い路地裏の住宅街に建つ神社
下/社殿の横にある神社の歴史を記した石碑